さっき確認したら、ほぼ10月発売の本なのに、Amazonランキングが全体で59位になっていた。めちゃくちゃ高い。こういうことが起きるのがインターネットのすごいところである。

これが著名なブロガーの一冊目の本であるならば、少しは理解できる。いわゆる「ご祝儀買い」が発生するからだ。でも、三冊目であり、3000円越えであり、720ページというとんでもない本なのである。その本を多くの人が予約した。それもこれも「読書猿さんが書いたのだから、間違いないだろう」という信頼がそこにあるからだ。それが、とんでもないパワーを生み出す。

ちなみに、Amazonでの予約数が多いと、初版の印刷部数も増えるみたいだから、どうせAmazonで買う人は予約しておくよろし(謎の中国人風)。

インターネットにはこういうすごい力があるわけだが、一方で、PVを集めてウハウハみたいな、江戸時代みたいなノウハウを懸命に売り込もうとしている人がまだ存在している。まあ、それしか売り物がないのだろうから、仕方がないといえば仕方がない。

でも、それって、上のインターネットのすごい力を、ほとんどまったく発揮させていない。むしろ、リアルの世界でよくある話を極めて小規模で展開しているだけの話である。それがうまくいくかどうかは別にして、つまらないことは間違いない。

インターネットというのは、これまで誰も「教科書」を書いたことがないことに挑戦できる空間なのだ。にも関わらず、わざわざフィールドを小さくしてしまう。ゲームのボラティリティを縮小してしまう。それを退屈と呼ばず、一体何を退屈と呼べばいいのだろうか。

フィールドを大きく使う人

でも、その退屈は、裏側に安心感も持っている。教科書のある安心感。ガイドブックのある安定感。そういうのを求めたい人がいるならば、それが提供されるのはごく自然なことだ。他者がやいやい言うことではない。

でもまあ、若い人の中にも、一定数私と同じようにそれを退屈だと思う人たちはいるだろう。私が今書いている『僕らの生存戦略』は、そういう人たちに「なるほど」と思ってもらって、何か指針を見つけてもらえるのならば一定の役割は果たすだろうと予想できる。

そう考えると、結局、私が20代の序盤で感じていた、あの「少数派の苦しみ」は、現代においても変わらないのだろう。私が書く本もまた、過去の自分に向けて書かれる。そういう、ひねりようのない構図がはっきりと存在していることを感じた。